副読本共用は著作権侵害

副読本共用は著作権侵害 
『副読本の共用は著作権を侵害する』などと理由にならない理由で教育委員会を″指導″した文科省の姿勢は極めて問題です。また、それをうのみにして保
護者に負担させた市教育委員会の責任も大きく問われると思います。
 こう話すのは、川崎市の市古市議です。同市では、小学校の道徳で使う副読本については、ほとんどの小学校で公費で購入。学校で保管し、生徒同士で共用するか貸し出し用として使い、独自資料も加えながら道徳指導をすすめてき
ました。副読本の負担区分について「学校の備え付け、共用または貸し出し用として使用するものは公費」と明確に位置づけており、保護者負担はありませんでした。
 ところが昨年度末、突然、合同校長会議の場で「小学校の副読本を学校で共用することは、著作権上問題がある」として個人で購入するよう市教委が指示したのです。その結果、4月には市内115校のうち85校で、計約5万3000冊を保護者負担で購入。負担額は2800万円にのぼります。
突然の保護者負担はなぜ?
なぜ突然、公費負担から保護者負担へと市は方針を変えたのか。その発端は昨年12月、文科省が主催して、全都道府県・政令指定都市教育委員会指導主事を一堂に集めた全国指導主事連絡協議会で、道徳担当の教科調査官が行った説明でした。
 本来児童生徒が個人購入することを想定して作成されている副読本を、学校の備え付けとし、共有して使用することは、訓読本に対する著作権を有する教材出版社の利益を不当に侵害することに該当するとの考えが一般的である…。こうした理由から、各学校で適切な対応を行うよう文科省が求めたのです。
 市古市議は言います。
 「学校で複数の副読本を備え付け、共用または貸し出しをすることがなぜ著作権法に違反するのか。あり得ないことです」
 市議団は6月25日に同省の道徳部会に電話。さらに翌日、国会の石井郁子衆院議員事務所を通じて同省に問いただしたところ、同省は「発言は誤りだった」ことを認めました。同日、同省は詳しい説明と謝罪のため市教委を訪れました。
 市古市議は6月29日、定例市議会でこの問題を質問しました。「ドリル代金が上がって、給食費も値上がりしで保護者負担が増えた。経済環境が厳しい中で、なぜ保護者の家計に心を寄せてもっと深く検討しなかったのか」と追及。市教委は「今後については、文科省の説明を踏まえて対応したい」と笞えました。同省は6月30日付で「道徳の副読本を学校に備え付けて多数の児童生徒が共用していたとしても、著作権の侵害には当たらない」として各都道府県教委と指定都市教委に対し、発言を訂正する事務連絡を送りました。
 「全国で同じようなことが起こっているのではないでしょうか。本来なら負担する必要のないものを負担させたわけですから、保護者に返還すべきだと思います」と市古市議は話しています。
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 この副読本、厄介者です。学校によってはクラス担任によっては採用しなくても道徳の時間やることがあるのに、採用するのが当たり前になっています。どの社のを採用するかに論点が行きます。分厚い方で子ども達もランドセルに入れての持ち運びも楽ではなく、私も教室に置いておきました。値段も安くなく、新年度お金がかさむときにこの金額も加算されて心が苦しくなります。それで、年度末、希望を募って学校が譲り受けそれを学年で保管して次年度の子が使うことを提案したこともあります。でも汚れているとか、名前が書いてあるとかクリアしなければいけないこともあって実現しませんでした。この記事のように学校で買って共用したり貸し出したりするのは賢明です。これも学校や教師の少しでも親の負担を少なくしようという一つの現れです。今回の記事で副読本の存在が明らかになりました。学校にはまだ他に使わなくていい、なくても指導や授業が出来るのに、関係団体がせっかく苦労して編集したのだから採用して、とうものがいくつかあります。それらもみんな親の負担です。この一つ一つの見直し、不採用にする取り組みを学校の内からも進めなくてはと思います。

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ある場所で何人かの人と話す機会がありました

ある場所で何人かの人と話す機会がありました。たまたま私の両側にいた人がともに怪我をした人でした。数ヶ月から半年、不自由な生活を続けるうち、日々の不自由ない生活がいかにありがたく、健康が大事か改めて分かったそうです。治療の話、手術の話、病院の話なども聞きましたが、医師の処置や判断で以後の経過と治りが大きく違うことも知りました。腕の問題でしょうが、これは教師にも通じる所があります。技量やテクニックだけでなく、その人に一番ふさわしい治療は何かを見極めるものも含めた技量です。こうした生活が続くとうつになることもあるそうです。自信をなくし、山に行っている人も行けないいらだちと行っている人へのうらやましさで雨で中止になると喜ぶ気持ちになるとか。こうした心の不安定をどう乗り越えるかが、いい経験にするのか、あるいはみんななくしてしまうのかの分かれ目かもしれません。子どもに押し当てても同じことが言えます。子どももよく怪我をしますが、怪我に限りません。いじめ、テストの点、不登校、家庭では両親の離婚や虐待など子どもを襲うアブノーマルな生活に明日にでも陥るかもしれません。子どももうつになったり自虐行為をしたり人間不信になったりとだれでも可能性があります。そうした時に心をどう持つかは精神科医、ケアの問題なのでしょうが、私が思うのは励ましてくれる人の存在と心を開ける友達の存在です。そうしたことをいい経験にするためにも、毎日が順風満帆ではないこと、自分が陥ったときの事を予測できるのも生きる力かなと思いました。そうした力を助けてくれるのは、特に子どもの場合は読書と経験者の話を聞くことだと思います。

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学童保育:広がる地域差 大規模施設分割の動き

学童保育:広がる地域差 大規模施設分割の動き/「放課後子ども教室」と一体化
 学童保育の地域差が広がっている。元々、自治体の取り組み姿勢に違いがあるのに加え、来年度から児童数71人以上の大規模学童保育への補助金が打ち切られることを巡り、対応が分かれているためだ。学童保育の現状を探った。【山田泰蔵】

 「おやつにするよー。ちゃんと座った班からおやつだよ」。指導員が懸命に呼びかけても、子どもたちは駆け回るのをやめない。
 78人が通うさいたま市見沼区の民設学童保育「春岡・春野小学童保育の会」。けんかして泣き出す子もいれば、窓から外に出ようとする子どももいる。全員が落ち着いておやつの時間になるまで30分もかかった。
 「あちこちで起きる騒ぎを抑えるだけで手いっぱい。おとなしい子たちへの目配りや心のケアまではなかなか難しい」と、指導員の金塚生子さん(29)。同学童保育所では今年12月から近くにもう1カ所の施設を開設し、30~40人規模の学童保育に分割する予定だ。金塚さんは「いままでは安全確保で精いっぱいだったが、分割でようやく『保育』ができるようになる」と胸をなで下ろす。
 国が補助金打ち切り
 「落ち着いて過ごせない」「目が行き届かず事故やトラブルが増える」。大規模学童保育の弊害が指摘されたため、国は07年に、「集団の規模は、おおむね40人程度が望ましく、最大70人までとする」などとするガイドラインを定めた。71人以上の施設への補助金打ち切りは、その誘導策の一つだ。
 さいたま市は国に先んじて06年に独自の運営基準を設け、施設定員を原則10~50人とし、民設施設も含めて適正規模化を図ってきた。市内の学童保育155カ所中、来年度まで大規模が続く可能性があるのは1カ所のみだ。しかし、同市のように規模適正化を順調に進めている自治体はそう多くない。
 学童保育の全施設が民設民営の横浜市は「市から強く働きかけて施設の分割を進めることはしない。基本的には運営にかかわる保護者らが自主的に考えて行うもの」(市放課後児童育成課)との立場。22カ所の大規模学童保育のうち分割が決まっている施設はほとんどない。同市内の大規模学童保育の指導員は「日常の運営は保護者らで行えても、分割は場所や資金の確保などの問題がからむ。保護者だけでは難しく検討すらできない」と明かす。
 全国学童保育連絡協議会の調査(5月1日現在)によると、大規模学童保育は全国で2137カ所あり、このうち09年度内の分割を決めているのは792カ所。同協議会の真田祐事務局次長は「補助金が打ち切られないようにと、新入生や高学年の入所を制限する可能性もある」と懸念する。
 共働きに限定せず
 大規模解消の動きとは無縁の自治体もある。東京都品川区は01年から全児童を対象に空き教室を遊び場として提供する放課後子ども教室「すまいるスクール」の導入を進め、05年に公的学童保育を全廃した。共働き家庭の子どもについては出欠確認をするなど保育の機能を持たせることで、学童保育の代用になると判断した。スクールには100人以上が集まることもあるが、区教育委員会は「学童保育とは異なるので分割は考えていない」(庶務課)という。
 品川区のように学童保育を全廃した自治体はまだ少ないが、国は06年に厚生労働省所管の「放課後児童クラブ(学童保育)」と、文部科学省所管の「放課後子ども教室」の一体化や連携強化を打ち出している。これに沿って、名古屋市や大阪市などで両制度の統合を図る動きも強まっており、自治体の取り組みは多様化している。
 公的学童保育を全廃した川崎市では、父母らが公的補助のない自主運営の学童保育を始めるケースが目立っている。同市の学童保育指導員は「学童保育は家庭に代わる生活の場所を提供するもので、遊び場である放課後子ども教室では対応できない」と話している。
 ◇利用児童数80万人--保育園卒園児の6割
 学童保育は、働く母の増加などを受けて97年の児童福祉法改正で法制化された。全国学童保育連絡協議会によると、5月1日現在の学童保育数は1万8475カ所で法制化後12年で倍増し、利用児童数も2.4倍の80万人に達した。しかし、保育園を卒園した子どもの6割しか入所しておらず、依然として不足している。
 国は08年、「新待機児童ゼロ作戦」として10年間で利用児童数を145万人増やす目標を掲げたが、この1年間で増えたのは1万4000人にとどまっている。
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 大規模施設分割は必要なことですが、児童数71人以上の大規模学童保育への補助金が打ち切られるという脅しはなんとも理解できません。そして、ここでも自治体や国の冷たさが目につきます。基本的には運営にかかわる保護者らが自主的に考えて行うもの」(市放課後児童育成課)との立場、という見解はまさに勝手にやっていいよという以外のなにものでもありません。分割は場所や資金の確保などの問題がからみ、保護者だけでは難しく検討すらできないというのも当然です。こうした冷たさは、高学費、義務教育なのに毎月の高額の納付金、などと同じつながりの政策の貧しさです。安心して働けるために学童の必要がますます高まっている時、何か手を打たなくてはいけないはずですが。

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昨日は七夕

昨日は七夕、しかも満月、夜、月が見えると最高なのですが。いつもそうですが、今年も保育園の玄関には七夕飾りが目を引いていました。この竹、学校でも以前同僚が自分の竹藪から前日切って学校まで運びそれを使わせてもらっていました。教室の入り口に飾ったのですが、季節感もあり子ども達も折り紙を折ったりしてうれしそうでした。七夕は古来の文化と思うのですが、ある人は宗教的なもので学校ではしないほうが、という意見もあります。昔はプール開きで御神酒と塩をプールに入れて安全祈願というのもありましたが宗教的なのでしょうか、それは消えたようです。それでも七夕かざりあたりは学校でもあっていいと思いますが。そして天気は悪くても空や星に目を向けるこれまたチャンスだと思います。若田さんがシャトルで長期滞在している、かぐやが月の様子を送信していた、今月は皆既日食が見られる、など条件もあります。先月恐竜博物館丙へ行ってきましたが何億年前のこのロマン、それはこの星や宇宙の世界も同じです。そこに子ども達が目を輝かせると科学の卵が育ったり、また子ども自身の心が大きくなるような気もします。

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私の出会った先生

堤未果(ジャーナリスト)
   心を開くことを恐れなかった先生

 学校生活を思い出そうと記憶の糸をたどってゆくと、出会った人たちや出来事がいくつも入り交じり輪郭がぼやけてくる。でもそんな中、大人になった私が、自信をなくしかけるたびに思い出す記憶がある。ずっと特別な場所にしまっておいたあの瞬間と、一番必要なものを教えてくれたI入の先生のことを。
 私の通った和光学園には、ひとクラスに最低2人、障害をもった生徒がいた。目の見えない子や耳の聞こえない子、私のクラスにもS君というダウン症の子と、T君という自閉症の子がいた。和光の先生たちは条件に関係なく、全生徒を同じように扱う。一人ひとりの顔や性格が違うように、彼らには同じことをするときにほんの少し手助けがいるのだと説明する。和光では、障害はそれ以上でも以下でもない。だからどのクラスでもそういう子は、砂場の砂をかき分けるようにして自然に居場所を手に入れていた。
               
 小学校のとき初めての担任だったB先生は、見た目が怖いことで有名だった。もじゃもじゃ頭が伸びすぎてアフロと化した巨体、口を間けば大声で、どんなにうるさい教室もすぐに静まり返る。体の小さい私は、一目でB先生を嫌いになった。
 自閉症のT君は卵アレルギーで、卵を見るとパニックになる。あるとき仲間うちでちょっとしたいたずら心を起こし、T君の机の中にゆで卵を入れた。自習の時間にそれを発見したT君は、案の定、大声をあげて部屋中を跳ねまわり、そのようすがおかしくて私たちはみな笑い転げた。そのときいきなり戸があいて、B先生がぬっと顔を出した。みな恐怖で凍りついた。先生は、暴れるT君を後ろから羽交い絞めにして落ち着かせると、静かに話しだした。「T君は障害をもっている。だから漢字もなかなか覚えられないし、いろんなことがみんなよりもうまくできない。でも彼にはすごいところがあるんだ。どんなに勉強しても教科書からは学べないこと、他の人を思いやる心だよ」。
 そういえば、T君は優しかった。ダウン症のS君がマラソンを走 るとき一番大きく拍手しながら跳ねまわって応援する。授業中、誰かの消しゴムが落ちたら真っ先に拾ってくれる。掃除中みなが遊んでいる横で、にこにこしながら雑巾を絞り、何度も何度も窓を拭く。
 「漢字を読める人は大勢いる。でも、人のことを思いやれる人はびっくりするほど少ないよ。みんなが心を開くのを怖がってるこの世界には、優しい人がたくさんたくさん必要だと先生は思う。それはね、君たちがどんなに勉強ができても、教科書からは学べないことなんだよ」。
               
 その日から拡は、何となくT君のそばに行くようになった。T君は、教室の隅にあるオルガンが好きでよく弾いていた。演奏は下手だったが、あるとき弾いていた曲が授業で習いたての曲だったので私が一緒に歌うと、他の生徒も集まってきて加わった。いつの間にか私たちは毎日少しずつその曲を練習するようになり、そのうち誰からともなく先生に見せようということになった。
 そしてある朝、私たちは先生が朝入って来る前に準備して、T君がオルガンを弾き、S君が麻痺していないほうの手で指揮を取り、全員が「タンポポ」を歌った。すると予期せぬことが起きた。一瞬唖然とした顔をした先生が、次の瞬間、両手で顔をおおって泣き出したのだ。
 学校で一番怖い先生が目の前で泣くのを見てみんな仰天したが、一心不乱に弾くT君の伴奏と、夢見るような瞳で手を動かすS君の指揮は止むことがなく、私たちはそのまま最後まで歌い続けた。歌が終わっても先生は泣き続けている。大人が深い感情を惜しみなくさらけ出している姿は、不思議な力で私を揺さぶった。教室の窓から差し込む西日が、私たち一人ひとりの顔を輝かせ、泣いている先生の背中にそっと置かれたT君の手までもオレンジ色に染めていた。               
 大人になると私たちは、傷つくことを避けるために自分を守るよろいをたくさん身につける。安っぽい感傷だと言われるのを恐れて、人問らしさを隠そうとする。そんな場面に会うたびに、私はB先生の言葉を思い出す。
 「この世界にはね、優しい人がたくさんたくさん必要なんだ」。
 子どもだった私だちと同じ目線で本気で怒り、笑い、傷つき、涙を見せてくれたB先生は、心を開くことを恐れなかった。閉じた瞼の裏にオレンジ色に輝いた教室が浮かびあがる度に思う。あの瞬開手にしたものを、決して手放したくないと。       
                                               クレスコ2009.6月号
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 私はこの人の原稿を読んで、教育って即効性を求めるものでないんだと思います。大きくなってから振り返って、この先生にこれだけの影響を感じるというのが教育の力であり魅力でないでしょうか。45分の授業を終えて、この授業で子どもにどんな力をつけたのかという研究会が盛んですが、この意味ではナンセンスなことだと思います。すぐ評価を求めるほど単純ではありません。それが教育のおもしろみではないでしょうか。

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学生と生活綴方の授業を参観

 学生や若い教師たちと生活綴方を学ぶ最も有効な方法は、現代子ども論を基礎に子どもの作品をたくさん読んで作品を読むことが好きになることであると思っている。その考えで大学教育実践もし、卒業生の若い教師たちに実践づくりをすすめてきた。しかし、生活綴方実践のなかで生まれた子どもの作品は、一面では、誰にでも読むことができるが、他方では、担任の教師でなければ本当には読めない側面を持っている。   (途中略)

授業後の作品読み
 授業が終わって、子どもを帰したあとに、T先生と学生だちとの学習会がもたれた。さっき書いたばかりの詩がコピーされ、まわし読みされた。学生たちに、作品のなかから、気になる作品、関心がある作品をそれぞれあげてもらった。次の作品に多くの手が上がった。

 悩み
       A子
私は算数の宿題をしていた。
でも、ぜんぜん分からなかった。
ノートの式と答えの所は真っ白。
 (どうしよ~。忘れになっちゃう。でも分かんない……。)
悩んだ結果……。
分からないのであきらめようという事にした。

 学生の感想。算数が苦手なAさんだが、宿題ができないことをこんな風に書いてくるのは、どこか教師に廿えがあるのかな。「あきらめたくないのにわからない」とこんな表現で訴えてきているのかな。あまり知られたくない作品の内容なのに、授業で自分から進んで前に出て読んでいたことも気になった。

 帰り道の空
          B子
「バイバイ」
みんなと別れた時、
ふと空を見上げた。
きれい。
空はまるで絵の具に水つけすぎたようなうすい色で
雲は白い絵の具をぼかしたようだった。
あまりにもきれいだったので
しばらく空を見上げていた。
なんか心が穏やかになった感じだった。

 ふと‥‥見上げた空の色にしばしうっとりしている作者の気持ちの穏やかさがうらやましい。自然とと気持ちの一体感を題材化したのはBさんだけであった。学生も私もそのなにかゆったりとした雪囲気に共感したのだった。こんな作品を書くBさんはどんな子どもなのかなという関心もあった。

作品に込められたの真実の世界
 担任のT先生は、「悩み」を書いたAさんのことを語ってくれた。
五年、六年の一学期までは宿題はまったくやらず、苦手な算数はまったく自分からやろうとしない状態でした。一人っ子のためなのか友だちとの関わりも少なかったようで、三年生ころからは一人でいるようになり、友だちと遊ぶ生活がほとんどなかったのです。五年の最後には、みんなが彼女を避けていることについても話しあいました。六年の夏休み、水泳や算数の補習で自信をつけてきたのか、二学期からは宿題をやってくるようになりました。
 勉強の悩みを書いたこの詩の内容と、それも今目白分から皆さんの前で読んだことに驚きました。Aさん自身が、勉強に前向きになって、宿題を忘れないようにしたい、と努力しているから書けたんだなあ、と思いました。なんと、
Aさんは、算数では初めて、この体積の単元に合格したんですよ」
 T先生は、Bさんについては次のように語ってくれた。
 「母親は体が弱く、父親は一年くらい一緒に暮らせない時期があり、今は家にいるが働いていません。家事はほとんどBさんがしています。だから両親は自分の言うことをなんでも聞くが、『精神的に追いつめられるんだよね』と話してくれたことがありました。しっかり者のお姉さんな
んですが、私にも想像できない家庭生活に、これからが心配です。学校では異常なほど、好きなアイドルのことをアピールしているのですが、そのことで自分を支えているようにも思えます。家に向かう帰り道の空に『なんか心が穏やかになった感じだった』という最後の一行、心が穏やかではいられない彼女の生活が浮かび上がってくるのです」
 私も学生たちも、詩に書かれている事実には、担任の先生や教室の仲間にしかわからない、そこに込められていた生活の真実があることを教えられた。考えさせられたことは、T先生の作品解説で、書かれている事実とそこに込められた真実のギャップに意表をつかれたことだった。また作品読みの深さ、重さも教えられた。
 子どもの作品を読むことには、担任にしかわからない真実と喜びがある。そして、子どもの表現には、そこに書かれている事実のなかにその子どもの全生活をかけた固有の意味が込められている。子どもの作品には、その教師や親や親しい友人にしかわからない世界が組み込まれているのだ。そこに子どもの作品に込めた真実(意味的世界)の世界が開かれている。教師は、作品を読みながら、その子どもの全生活を重ね、子どもの真実(意味的世界)の世界をも読んでいくのだ。

他の教室では授業ができない理由
 私は、研究会のあとに、T先生に生活綴方の授業観を聞いてみた。T先生は、生活綴方の授業について次のように語ってくれた。
 「生活綴方の授業は、子どもだちと日々生活を共に送っている担任や専科(教科)の教師が行うところに大切な意味があると思います。子どもを丸ごととらえることが大切だからです。
 私の学級に授業を見に来ることは、私や学校の都合が許す範囲で、お見せすることができます。しかし、まったく知らない子どもたち、ちょっとだけ知っている子どもだちとの授業をお願いされたら、本当の意味での『作文や詩の授業』ができないと思っています。なぜなら、担任していない子どもの教室では、今日の作品に表現されたAさんの思いやBさんの気持ちの背景にある生活をわかってあげられないことがあるからです。
 子どもの生活を知らない教室では、授業の進め方、表現の受け止め方など表面的な『授業のやり方』を見せるものになりかねません。真剣に書いたり読みあったりする子どもたちに申し訳ないと思うのです。初対面の子どもや、一、二度あった子どもたちが、本当に言いたいことや、どんな生活がそう書かせたり言わせたりしているのか、私には読み取ったり、発言や表現から汲み取る力がないからです」
 私は、それを聞いてなるほどと思った。そこには子どもたちの生活表現に向きあう誠実な教師の姿勢がにじみ出ている。子どもが真剣に書いたものを読めなかったら「子どもたちに申し訳ない」「汲み取る力がない」というT先生の言い方は、一見、謙虚に言っているだけのように聞こえる。しかし、そこには各地でおこなわれているゲスト教師が教室を借りておこなう授業は、「表面的な『やり方』を見せるだけの」ものになってはいないかという警告が含まれている。
 ゲスト教師による授業を全面的に否定するつもりはない。今日の学校で生活綴方的な授業が忘れ去られているときに、ゲストによる授業は一定の意味を持っている。しかし、その授業を見た多くの先生たちが、ゲストの先生の授業の形式的側面だけを見てしまわないともかぎらない。ゲストの教師も参観者も子どもたちの表現の底にある生活の意味的世界をどれほど読み取れるのかという重い課題が残されるのだ。
 担任でも子どもの内面の本心が読み切れないと言われる今日、私なら読み取れると討い切れるほど子どもは甘くないのではないだろうか。
 T先生の授業観は、津田が言う「子どもの作品を読むということは、その子をよく知り、あるいは知ろうとしている指導者でなければできないのではないかとさえ思えてくる」という実践思想につながってくる。それは生活綴方実践のひとつの最も大切な教師の姿勢を示しているように思えた。その意味で生活綴方の授業は上手とか下手とかの問題ではないのだ。
 そういえば津田八洲男の授業は決して上手というものではなかった。教師の世界でのいわゆる授業の上手・下手論からいえば、下手な授業と言われただろう。なんの飾りもなく、参観者に見せるための気の利いた授業技術もほとんどなかった。私たちが参観に行った日でも、いつも一見ぶっきらぼうな授業だった。しかし、そこには涙とユーモアがあった。子どもだちとのウソのない生活表現を共有する安心できる共感が広がっていた。
 学生たちは、作品読みに組み込まれている子どもの思いを読み取る教師の子どもの捉え方の深さに驚きながら、感動を持ち帰ることができた。生活綴方実践における教師と子どもたちの真剣勝負の場面に出会えたことを、彼らが教師になったときの宝物にしてほしいと願う。
                                「作文と教育」2009年6月号 村山さん原稿
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 その子の生活をつかんで知っている担任が子どもの書いたものを最も読み取ることができる、というのは納得です。言葉を返せば、子どもをしっかり見て、つかまないと授業もできないし学級づくりもできない、ということになります。また「はいはい」と手の挙がる華やかな授業、子ども達がたくさん意見を自分達で言い合う素敵?な授業もはたしてそうなんだろうかとずっと思っていました。授業ってショーではないし全てが楽しいものでもないし、むしろポツポツとし、参観者が見ていてもつまらないもととも言えます。でも担任と子ども達にとっては意味のある授業になっているそんなのが授業だと思っていました。その思いと一致したのがこの原稿です。授業ってこんなのではないでしょうか。

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ボランティア

もうすぐ7月、今年はカレンダーの関係で7月18日から夏休みに入ります。その夏休みの最後の方にボランティアの日というのが新設されました。学校によっては掃除をしたりいろいろです。昨年水害で被害にあった時、浸水家屋に中学生が駆けつけて泥の排出作業を手伝った、このことにちなんで全市でボランティアの活動をしようということになったようです。ボランティアってなんでしょう。朝、学校に行くと挨拶でクラスごとに日を変えて玄関で「おはようございます」と呼びかけています。これも言ってみればボランティアでしょう。そうしようと思う気持ちがあってはじめてボランティアはその意味を持ちます。学校で子ども達が話し合い相談してそれではやろうということであれば納得ですが、それもなくて全市一斉にやりましょうでは子どもの頭を素通りです。意欲にもつながりません。このボランティア、教育活動の大きな評価の対象になります。高校受験や大学推薦入試の時、この経験があるか問われるとか、ですから意に反してもそうした活動に参加させることが学校で広く行われることになります。空々しい慈善が大手を振ってまかり通る、こんなことが学校で増えてきました。道徳を全教育活動で行うという改訂された指導要領にるものでしょうが、本音を語り合う教育とはますますかけ離れることになります。そうした学校を卒業した子ども達はどんな人になっていくのでしょうか。私もその水害の時、ボランティアで作業に参加しました。若者が自主的に参加している姿が多いのです。夏休みということもあったのでしょう。それより以前の能登での地震の時もバスでボランティアに行きましたが、この時も若者がたくさんいました、寒い雨の日でしたが。つまりボランティアを強制されて育った子でも、まともな感覚で自分の意志でボランティアに加わる健全さを持っているということです。やはり人間ですてたものでないし、機械的なボランティアの導入を学校や市も気づいてほしいと思います。

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制服ならぬ「制携帯」導入

制服ならぬ「制携帯」導入 神戸の私立須磨学園2009年6月22日.
 小中学校などで携帯電話を規制する動きが広がるなか、私立須磨学園中学・高校(神戸市須磨区、生徒数1574人)は来年度から、学校指定の携帯電話を導入する方針を決めた。制服や制帽にちなみ「制携帯」と名付け、有害サイトに接続できない設定にした上で、生徒に配布する。禁じるより正しい使い方を教えることが必要と判断した。
 須磨学園は私有携帯の校内持ち込みを禁じていないが、電源を切って使わない決まり。制携帯の導入後もこのルールを変えない。制携帯については、授業で使う以外は同様の取り扱いにする。制携帯を用いた生徒間、生徒と教師間の通話料金は無料になる見通しだ。
 制携帯を使った授業では、生徒に携帯をめぐる犯罪やトラブルにどういうものがあるかを調べさせ、予防策を考えさせる。音声機能を使って英会話を学んだり、自宅学習用の教材を読み込んだりできるようにする。
 生徒の緊急時には、学園が設置したサーバーの記録を確認し、制携帯のメール履歴などを閲覧可能にする。全地球測位システム(GPS)機能も生かし、生徒がどこにいるか把握できるようにもする。
 21日の文化祭で生徒会が、全校生徒らを対象にしたアンケートの結果を発表。生徒の39%が「携帯は学校生活でも必要」と回答する一方、「制携帯は使いたくない」が31%に上った。中3男子は「学校に管理されているようで嫌」。「先生や同級生との通話がただになる」(中3女子)と賛成する意見も。
 西泰子理事長は「学園の生徒の92%が携帯を所持している実情を考えれば、一律に禁止するより、使い方のルールやマナーを教えたほうが良いと判断した」と話す。
 文部科学省は1月、小中学校への携帯の「持ち込みを原則禁止」、高校での「校内での使用を禁止」する通知を出している。(市原研吾)
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 まだこの方が順当な気もするのですが、要は使う生徒の気持ちと思いだと思います。学校に管理されているようで嫌というのも分かります。そのようなことにならないよう学校側も配慮する必要があります。理事長も言っているように学園の生徒の92%が携帯を所持している実情をしっかりとらえているかどうかがスタートになります。そうであれば携帯禁止は無謀ということになります。ですから「制携帯」のほうがまだベターと思うのですが、命名からしていかにも管理という感じもします。使いたくないが31%というのももっともです。
 頭越しに禁止というように即断してもいけないし、かと言って今のままでいいはずもありません。その一つの方策がこれでしょうが、31%の不賛成はまだ生徒の気持ちと思いをくみ取ってはいないということでしょう。サイトの規制やモラル、ルールの遵守などの明確化など携帯会社やサイトの運営会社にもすぐ強力に働きかけること、が抜けているのが本当は一番の問題ですが。

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もうすっかり季節は夏に移ったようです

もうすっかり季節は夏に移ったようです。朝子ども達ケースを持って学校の玄関に来る子もちらほら、その中は、オタマジャクシであったり、蝶の幼虫であったり、です。田んぼの水面にも生き物がいて子ども達がとまって群れているのですぐ分かります。庭木の花、畑の花もとてもきれいなのですが、そこにはあまり目がいかないようです。ある畑にこんなきれいなランがあるのかとびっくりしました。
 先日たまたま一緒に歩いていた子は今度日曜日、ザリガニつりに行くことを話していました。するめでつり上げるようです。その子はまた、アニメの写し絵や描写が大好きなことも分かりました。運動系の子が多いのですが、こんな子も大事な存在だと思います。
 また別の子の話を聞いていると、宿題が多いことを嘆いていました。午後遊ぶ時間がほしいのだそうです。当然の願いだと思います。どうして子どものこんな時間を奪うのでしょう。元来勉強は学校でするもの、家で時間をどう使おうと、学校が手を出すことではないというのが本来の姿ではないでしょうか。つまり宿題は不要かあっても少しが昔の様子でした。どうして子どもをこんなに追い込むのでしょう。
 私の家の近くではその午後、たもを持ってはらべこで用水に向かい熱中している子どもがいました。ザリガニがいるのです。上手に何匹もケースに入っています。捕るのがうまいんですね。こんな近くにまだザリガニがいるのにもびっくりです。午後こんな時間がどの子にもいっぱいあるといいのにと思います。

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自ら考え生きる力育む

自ら考え生きる力育む、1年の記録刊行 埼玉 いなほ保育園
 開園からまもなく30年を迎える埼玉県桶川市の無認可保育所「いなほ保育園」は、規則で子どもたちを管理せず、本来持っているものを大切に、自ら考えて生きる力を育てる保育方針で注目を集めている。
 今年4月には、定期的に園を訪れてきた作家の塩野米松さんが、北原和子園長に話を聞いてまとめた「いなほ保育園の十二ヶ月」(岩波書店)も刊行された。
 のどかな田園の中、畑や林、牧場もある同園の約1万3000平方メートルの敷地は起伏に富み、広々とした板張りのテラスが印象的な園舎が並ぶ。木陰にある園舎に入ると、赤ちゃんが数人。ほかの子どもたちは、皆はだしで地面を駆け回っている。
 園児は約100人で、卒園生も通っている。決まったカリキュラムや時間割はない。子どもたちの様子を見て、その日やることを決めている。同園では、読み書きはできても、物が飛んできたら瞬間的に目を閉じるなど反射的に身を守ることができなくなっている今の子どもたちに何が必要か、その都度考え、試行錯誤を重ねてきた。
 保育士たちは木登りする子に「危ないからだめ」とは決して言わない。「子どもはいたずらと危険が当たり前」という北原園長。その分、子どもたちの行動や成長にはしっかり目配りしている。それがうかがえたのは昼食の時間。丸ごとの焼き魚にかじりついている2歳の男の子に、北原園長が目を留めた。
 「自分に食べられない骨は、器用に取り除いて食べるようになったのね。すごい」
 子どもたちは自然に助け合って成長している。同園では赤ちゃんの時からおむつを着けていないが、下着がぬれたら、保育士でなくとも大きい子が気付いて、弟や妹の面倒を見るように取りかえる。大家族で過ごしているような雰囲気だ。授乳に来た母親の一人は「今の子はどこかいらいらしている感じがするけど、ここの子はのびのびして見える」。北原園長は「人間そのものを見ることが大切」と話している。(金巻有美)
(2009年6月16日  読売新聞)
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  いなほ保育園という実像や様子がまだよくつかめないのですが、子育ての原点を思い起こしてくれるような気がします。自然がいっぱいのかかわり、異年齢でのかかわりに成長の芽が育つということです。広い敷地に畑や林、牧場もあり、広々とした板張りのテラスが印象的な園舎、木陰にある園舎、こんな保育園ですがこれが学校だとしたら、何と素敵でしょう、マッチ箱を積み上げたような四階建てではなくてこのような校舎だったら毎朝、早く学校に行こうと思うでしょうね。大家族で過ごしているような雰囲気だというのもいいですね。これだけのおおらかさとのびのびさが学校にもあったらとうらやましく思います。

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