学生や若い教師たちと生活綴方を学ぶ最も有効な方法は、現代子ども論を基礎に子どもの作品をたくさん読んで作品を読むことが好きになることであると思っている。その考えで大学教育実践もし、卒業生の若い教師たちに実践づくりをすすめてきた。しかし、生活綴方実践のなかで生まれた子どもの作品は、一面では、誰にでも読むことができるが、他方では、担任の教師でなければ本当には読めない側面を持っている。 (途中略)
授業後の作品読み
授業が終わって、子どもを帰したあとに、T先生と学生だちとの学習会がもたれた。さっき書いたばかりの詩がコピーされ、まわし読みされた。学生たちに、作品のなかから、気になる作品、関心がある作品をそれぞれあげてもらった。次の作品に多くの手が上がった。
悩み
A子
私は算数の宿題をしていた。
でも、ぜんぜん分からなかった。
ノートの式と答えの所は真っ白。
(どうしよ~。忘れになっちゃう。でも分かんない……。)
悩んだ結果……。
分からないのであきらめようという事にした。
学生の感想。算数が苦手なAさんだが、宿題ができないことをこんな風に書いてくるのは、どこか教師に廿えがあるのかな。「あきらめたくないのにわからない」とこんな表現で訴えてきているのかな。あまり知られたくない作品の内容なのに、授業で自分から進んで前に出て読んでいたことも気になった。
帰り道の空
B子
「バイバイ」
みんなと別れた時、
ふと空を見上げた。
きれい。
空はまるで絵の具に水つけすぎたようなうすい色で
雲は白い絵の具をぼかしたようだった。
あまりにもきれいだったので
しばらく空を見上げていた。
なんか心が穏やかになった感じだった。
ふと‥‥見上げた空の色にしばしうっとりしている作者の気持ちの穏やかさがうらやましい。自然とと気持ちの一体感を題材化したのはBさんだけであった。学生も私もそのなにかゆったりとした雪囲気に共感したのだった。こんな作品を書くBさんはどんな子どもなのかなという関心もあった。
作品に込められたの真実の世界
担任のT先生は、「悩み」を書いたAさんのことを語ってくれた。
五年、六年の一学期までは宿題はまったくやらず、苦手な算数はまったく自分からやろうとしない状態でした。一人っ子のためなのか友だちとの関わりも少なかったようで、三年生ころからは一人でいるようになり、友だちと遊ぶ生活がほとんどなかったのです。五年の最後には、みんなが彼女を避けていることについても話しあいました。六年の夏休み、水泳や算数の補習で自信をつけてきたのか、二学期からは宿題をやってくるようになりました。
勉強の悩みを書いたこの詩の内容と、それも今目白分から皆さんの前で読んだことに驚きました。Aさん自身が、勉強に前向きになって、宿題を忘れないようにしたい、と努力しているから書けたんだなあ、と思いました。なんと、
Aさんは、算数では初めて、この体積の単元に合格したんですよ」
T先生は、Bさんについては次のように語ってくれた。
「母親は体が弱く、父親は一年くらい一緒に暮らせない時期があり、今は家にいるが働いていません。家事はほとんどBさんがしています。だから両親は自分の言うことをなんでも聞くが、『精神的に追いつめられるんだよね』と話してくれたことがありました。しっかり者のお姉さんな
んですが、私にも想像できない家庭生活に、これからが心配です。学校では異常なほど、好きなアイドルのことをアピールしているのですが、そのことで自分を支えているようにも思えます。家に向かう帰り道の空に『なんか心が穏やかになった感じだった』という最後の一行、心が穏やかではいられない彼女の生活が浮かび上がってくるのです」
私も学生たちも、詩に書かれている事実には、担任の先生や教室の仲間にしかわからない、そこに込められていた生活の真実があることを教えられた。考えさせられたことは、T先生の作品解説で、書かれている事実とそこに込められた真実のギャップに意表をつかれたことだった。また作品読みの深さ、重さも教えられた。
子どもの作品を読むことには、担任にしかわからない真実と喜びがある。そして、子どもの表現には、そこに書かれている事実のなかにその子どもの全生活をかけた固有の意味が込められている。子どもの作品には、その教師や親や親しい友人にしかわからない世界が組み込まれているのだ。そこに子どもの作品に込めた真実(意味的世界)の世界が開かれている。教師は、作品を読みながら、その子どもの全生活を重ね、子どもの真実(意味的世界)の世界をも読んでいくのだ。
他の教室では授業ができない理由
私は、研究会のあとに、T先生に生活綴方の授業観を聞いてみた。T先生は、生活綴方の授業について次のように語ってくれた。
「生活綴方の授業は、子どもだちと日々生活を共に送っている担任や専科(教科)の教師が行うところに大切な意味があると思います。子どもを丸ごととらえることが大切だからです。
私の学級に授業を見に来ることは、私や学校の都合が許す範囲で、お見せすることができます。しかし、まったく知らない子どもたち、ちょっとだけ知っている子どもだちとの授業をお願いされたら、本当の意味での『作文や詩の授業』ができないと思っています。なぜなら、担任していない子どもの教室では、今日の作品に表現されたAさんの思いやBさんの気持ちの背景にある生活をわかってあげられないことがあるからです。
子どもの生活を知らない教室では、授業の進め方、表現の受け止め方など表面的な『授業のやり方』を見せるものになりかねません。真剣に書いたり読みあったりする子どもたちに申し訳ないと思うのです。初対面の子どもや、一、二度あった子どもたちが、本当に言いたいことや、どんな生活がそう書かせたり言わせたりしているのか、私には読み取ったり、発言や表現から汲み取る力がないからです」
私は、それを聞いてなるほどと思った。そこには子どもたちの生活表現に向きあう誠実な教師の姿勢がにじみ出ている。子どもが真剣に書いたものを読めなかったら「子どもたちに申し訳ない」「汲み取る力がない」というT先生の言い方は、一見、謙虚に言っているだけのように聞こえる。しかし、そこには各地でおこなわれているゲスト教師が教室を借りておこなう授業は、「表面的な『やり方』を見せるだけの」ものになってはいないかという警告が含まれている。
ゲスト教師による授業を全面的に否定するつもりはない。今日の学校で生活綴方的な授業が忘れ去られているときに、ゲストによる授業は一定の意味を持っている。しかし、その授業を見た多くの先生たちが、ゲストの先生の授業の形式的側面だけを見てしまわないともかぎらない。ゲストの教師も参観者も子どもたちの表現の底にある生活の意味的世界をどれほど読み取れるのかという重い課題が残されるのだ。
担任でも子どもの内面の本心が読み切れないと言われる今日、私なら読み取れると討い切れるほど子どもは甘くないのではないだろうか。
T先生の授業観は、津田が言う「子どもの作品を読むということは、その子をよく知り、あるいは知ろうとしている指導者でなければできないのではないかとさえ思えてくる」という実践思想につながってくる。それは生活綴方実践のひとつの最も大切な教師の姿勢を示しているように思えた。その意味で生活綴方の授業は上手とか下手とかの問題ではないのだ。
そういえば津田八洲男の授業は決して上手というものではなかった。教師の世界でのいわゆる授業の上手・下手論からいえば、下手な授業と言われただろう。なんの飾りもなく、参観者に見せるための気の利いた授業技術もほとんどなかった。私たちが参観に行った日でも、いつも一見ぶっきらぼうな授業だった。しかし、そこには涙とユーモアがあった。子どもだちとのウソのない生活表現を共有する安心できる共感が広がっていた。
学生たちは、作品読みに組み込まれている子どもの思いを読み取る教師の子どもの捉え方の深さに驚きながら、感動を持ち帰ることができた。生活綴方実践における教師と子どもたちの真剣勝負の場面に出会えたことを、彼らが教師になったときの宝物にしてほしいと願う。
「作文と教育」2009年6月号 村山さん原稿
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その子の生活をつかんで知っている担任が子どもの書いたものを最も読み取ることができる、というのは納得です。言葉を返せば、子どもをしっかり見て、つかまないと授業もできないし学級づくりもできない、ということになります。また「はいはい」と手の挙がる華やかな授業、子ども達がたくさん意見を自分達で言い合う素敵?な授業もはたしてそうなんだろうかとずっと思っていました。授業ってショーではないし全てが楽しいものでもないし、むしろポツポツとし、参観者が見ていてもつまらないもととも言えます。でも担任と子ども達にとっては意味のある授業になっているそんなのが授業だと思っていました。その思いと一致したのがこの原稿です。授業ってこんなのではないでしょうか。